甘くて、美味しく、疲れている時は恋しくなる『チョコレート』。
ティータイムのお供として、子供たちのお菓子としてだけでなく、バレンタインデーやクリスマスのプレゼントとしてもすっかり定着した『チョコレート』。
『チョコレート』固形のものを思い浮かべますが、チョコレートの原料であるカカオの実は、紀元前2000年ごろから、メソアメリカではカカオが栽培され、
アメリカ先住民族は、カカオを粉にしてコーンミールや唐辛子、バニラなどの香辛料を入れ、水や湯に溶かしたカカオ・ペーストあるいは、液体を主に嗜好品として、また薬用や強壮用として飲んでいました。
15世紀まで、チョコレートの原料となるカカオは、貨幣として流通するほど珍重され、1428年頃から1521年までの約95年間、北米のメキシコ中央部に栄えたメソアメリカ文明の国家・アステカでは税あるいは貢ぎ物としても納められていました。
そんなチョコレートの歴史についてまとめてみました。
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チョコレートの歴史 カカオの発見はいつ?誰?
チョコレートの原料となるカカオが、発見されたのは、ヨーロッパの国々が大航海時代にあった16世紀初頭になります。
15世紀半ば頃のヨーロッパでは、頑丈なキャラック船やキャラベル船が建造されるようになり、イスラム圏から羅針盤が伝わり、航海技術の発展外洋航海が可能になったことにより、ポルトガル・スペインを初めてとして、各々の国が勢力を拡大していく大航海時代が始まりました。
大航海時代は、、ヨーロッパ人が、アフリカ・アジア・アメリカ大陸への大規模な航海を行い、”発見”した土地で略奪や搾取の限りを尽くした時代でもあります。
しかし、16世紀初頭、マルティン・ルターの宗教改革によって、多くの信者を失った形になったカトリック教会の長老であるローマ教皇も、海外侵略を強力に後援していました。
海外での新たな信者獲得のため、強固なカトリック教国であるポルトガル・スペイン両国の航海に使命感溢れる宣教師を連れ添わせ、ポルトガル・スペインが獲得した領土の住民へカトリックの布教活動を行いました。
日本の種子島に到着し、キリスト教(カトリック)を布教したフランシスコ・ザビエルも、そんな宣教師の一人だったのですね。
そんな時代にチョコレートの原料カカオを発見したのは、クリストファー・コロンブスだと言われています。
クリストファー・コロンブスは、スペイン王室の支援を受けて、大航海をしていました。
その為、クリストファー・コロンブスは、発見したカカオの実を、スペイン(当時のカスティーリャ王国)イザベル1世とその夫・フェルディナンド2世に見せるためヨーロッパに持ち込みました。
コロンブスの息子によれば、最初にチョコレート(カカオの実)を見たヨーロッパ人は、コロンブスで、1502年のコロンブス最後の航海時であったとされています。
ただし、コロンブスは、チョコレートを飲んだという記述はないそうです。
おそらく、クリストファー・コロンブスは、カカオを飲食物と認識しておらず、ただ、スペインにはない珍しいものとして持ち帰ったのかもしれませんね。
チョコレートの歴史 ヨーロッパにはどう広まった?
クリストファー・コロンブスが、カカオの実を、スペイン(当時のカスティーリャ王国)イザベル1世とその夫の・フェルディナンド2世に見せるためヨーロッパに持ち込んだのですが、チョコレートを広めたのはスペインの修道士とされています。
16世紀のスペイン人のイエズス会神父で、伝道のためペルー、後にはメキシコにて暮らしていたホセ・デ・アコスタは、カカオについて次のように書いています。
非常に不快な味のするかすや泡があり、体験したことがないほど気分が悪くなる。だが現地の者たちには大変尊ばれており、高貴な来訪者をもてなすのに用いられる。
この国に慣れ親しんだスペイン人ならば男女を問わずこの飲み物に貪欲となる。
彼らはそれを飲むことで暑さや寒さその他さまざまなものが和らぐと言い、唐辛子を大量に入れる。さらに胃腸に良くカタル予防になると肌にも貼り付ける。
1544年 ケクチ・マヤ族(グアテマラに住むマヤ族)の使節が、 スペインのフェリペ皇太子(のちのフェリペ2世)への訪問した際、チョコレート(カカオ)は、飲料として、容器とともに宮廷に運ばれました。
1585年 ベラクルスからセビリアへの積荷として、チョコレート(カカオ)の最初の取り引きが行われました。
スペイン人はアフリカ人の奴隷を使い、カカオのプランテーション栽培を始めましたが、当時、チョコレートは、ヨーロッパではスペインのみでの普及していました。
その後、チョコレートは、スペインだけではなく、フランスでも普及していくのですが、チョコレートは、どのようにしてフランスに伝えられたのでしょうけ。
チョコレートの歴史 フランスへ伝わった由来は?
1615年 フランス王ルイ13世が、スペイン王女アナ・マリーア・マウリシアと結婚
チョコレートを好むスペイン王女アナが、嫁入りの際に持参し、フランスにチョコレートがもたらされました。
1661年 ルイ13世の息子ルイ14世がスペイン王女マリア・テレサと結婚
スペイン王女マリア・テレサもチョコレートを好んでいたため、フランスでは上流階級からチョコレートが広まりました。
スペイン王女マリア・テレサにいたっては、チョコレートを飲む道具一式と、チョコレート専門の料理人(後にいうショコラティエ)を連れて輿入れしています。
彼女たちにとって、チョコレートは、大事な嫁入り道具の中の一つだったんですね。
“チョコレート”のない生活なんてありえない!!ほど、彼女たちの生活の中での比重が大きかったのかもしれませんね。
チョコレートの歴史 イギリスではどう発展?
17世紀後半には、チョコレートは、イギリスにも伝わります。
1657年 ロンドンで最初のチョコレートハウスが開店
1689年 医師で収集家・ハンス・スローンが、ジャマイカで「ミルクチョコレートドリンク」を開発
この「ミルクチョコレートドリンク」は、薬剤師向けに作られていたのですが、その後、チョコレート製造業を興した実業家・キャドバリー兄弟に、「ミルクチョコレートドリンク」の権利が売却されました。
苦い飲み物から甘い飲み物に変化したことで、チョコレート(カカオ)は、17世紀頃にはヨーロッパの王侯貴族の間でカカオはぜいたく品となっていきました。
チョコレートの歴史 固形チョコレートはいつ?どこで?
イギリスではじまった産業革命は、チョコレート(カカオ)の製造にも大きな変化をもたらしました。
18世紀には固く長持ちするチョコレートの製造の補助となるココアバター(カカオバター、カカオ豆の脂肪分)を絞り出すための機械式ミルが作られていましたが、産業革命以降は、大規模に行われるようになりました。
18世紀の末までに、ヨーロッパの各所に水力を利用したチョコレート製造所が現れ、やがてそれらは蒸気力を導入し、より大規模になり、チョコレート産業都市を形成してきました。
また、産業革命後まもなく、チョコレート会社は、新しく作られたチョコレート菓子の販売のために、今日のように広告や宣伝を行うようにもなりました。
製造工程の機械化により、チョコレートは世界中で消費されるようになり、チョコレート菓子の材料としても用いられるようになりました。
1719年 コンラッド・ハッガーが残した料理手帳に「チョコレートトルテ」と記されているのが確認されています。
19世紀初頭 シモン・ボリバルによる南米の動乱(スペインからの独立運動)により、南米でのカカオ生産が落ち込み、続いて、ナポレオン戦争の影響で贅沢品に対する購買力が落ちた上に、大陸封鎖で品薄となった代わりに紛い物が出回り、品質に対する信用も低下し、チョコレートは停滞の時期を迎えました。
しかし、そんな低迷期に、チョコレートの技術革新が起きます。
1828年 オランダのクーンラート・ヨハネス・ファン・ハウテン(バンホーテンの創業者)が、『カカオ豆からココアパウダーとココアバターを分離製造する方法』を開発
これにより、濃密で水なしでは飲めなかったチョコレートの口当たりがよくなり、さらにチョコレート普及が進んみました。
また、ファン・ハウテンは、アルカリを加えることで苦味や酸味を除く『ダッチプロセス』をも開発し、『チョコレートバー』を作ることをも可能にしました。
※ダッチプロセス
アルカリで中和を行いながらココアパウダーを作る製法で、穏やかな風味や香りで滑らかさがあり、色もチョコレート色に近くなります。ダッチプロセスによるココアパウダーはアイスクリームやホット・チョコレート、焼き菓子に向いています。
しかし、ファン・ハウテンの圧搾機が開発された頃は、チョコレートは、まだ飲み物であり、抽出したココアバターの使い道が無かったために特に注目はされなかったそうです。
1847年 イギリス人のジョセフ・フライ(J・S・フライ・アンド・サンズ社)が、初めて『固形チョコレート』を作りました。
1849年 キャドバリー兄弟(ジョセフ・フライの息子達)により引き継がれたましたが、この頃のチョコレートは、まだ苦いものだったそうです。
1819年 F.L.ケイラーが初めてスイスにチョコレート工場を開設しました。
スイスのろうそく職人ダニエル・ペーターは、義父がチョコレート会社を経営していたことからチョコレートに携わるようになります。
1867年からダニエル・ペーターは、チョコレートの苦味をまろやかにするために牛乳を入れることを試行錯誤し始め、『粉ミルクを入れる』という解決方法を発明
(溶けたチョコレートに水分を混ぜると、チョコレートの中の砂糖が水分を吸収しココアバターの油と分離するためにボソボソになり食感が悪くなってしまいます。)
1875年 ダニエル・ペーターは、『ミルクチョコレート』の販売を始めました。
『ミルクチョコレート』製造には、牛乳から水分を抜く必要がありましたが、ダニエルは隣りに住んでいたベビーフード生産業者・アンリ・ネスレ(ネスレ創業者)と協力して研究を行ったと言われています。
1879年 スイスの首都・ベルンの薬剤師の息子であったロドルフ・リンツ(Rodolphe Lindt)は、従来の硬いチョコレートに対して、チョコレートの粒子を均一かつ細かくし、滑らかな食感を出すのに必要なコンチング(チョコレート製造の際にココアバターを均一に行き渡らせる作業)を発明しました。
コンチェは、ロドルフ・リンツが、間違えてチョコレートを一晩中ミキサーに掛けたままにしてしまったことがキッカケで誕生したと言われています。
ロドルフ・リンツは、その時、エネルギーの無駄遣いと機械の消耗に取り乱したそうですが、ほどなく、画期的なことを発見したことに気付いたそうです。
以前から、スイスでチョコレートの製造販売をしていたJohann Rudolf Sprüngli-Schifferliは、ロドルフ・リンツのチョコレート店を買収し、会社名をAktiengesellschaft Vereinigte Berner und Zürcher Chocoladefabriken Lindt & Sprüngliと改名し、現在のリンツ&シュプルングリーに至る基礎を気づきました。
1949年 リンツ&シュプルングリーは、看板商品となるトリュフチョコレートの「リンドール」を販売開始
1960年代 リンツ&シュプルングリーは、スイス国内のチョコレート製造メーカーを相次いで買収・統合することで経営規模を拡大してい見ました。
帝国主義の時代、アフリカやインドネシアといった列強の植民地に、カカオの栽培は拡散していき、1910年にはギニア沖のサントメ島が世界最大のカカオ輸出地になるなど、カカオ生産の拠点はアフリカに移されました。
※1905年にイギリスのジャーナリスト、ヘンリー・ウッド・ネヴィンソンが、サントメ島を取材し、著作「現代の奴隷制」で、奴隷的な労働の実態を明らかにしました。
甘くて美味しチョコレートは、奴隷として働かせられた現地の人たちからすれば、苦くて辛い植民地政策の産物でもあるんですね。
チョコレートの歴史 まとめ
スペインがチョコレートの原料となるカカオを発見し、スペイン、フランス、イギリスと飲料としてのチョコレートが普及し、スイスで固形チョコレートが作られ、スイスで、現在のような美味しいチョコレートが開花したのですんね。
甘く美味しくなったチョコレートしか食べたことがないですが、初めは、甘くも美味しくもなかったのですね。
普段、何気なく食べてしまっているチョコレートですが、こんなにも時間と人々の想いが詰まっていたんですね。
もっと、味わって食べていきたいと思います。
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