津田梅子 新5000円札の顔

【新紙幣5000円札の顔】として『津田梅子』が用いられることが、発表されました。


『津田塾大学』の創設者であり、女性の高等教育に生涯をささげてきたと言われている『津田梅子』ですが、一体どのような方なのでしょうか?

津田梅子とは?津田梅子が【新紙幣5000円札の顔】に選ばれた由は?などについてまとめてみました。


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津田梅子のプロフィールと生い立ち



氏 名: 津田梅子(つだ うめこ)
生年月日: 1864年12月31日 江戸牛込南御徒町(現在の東京都新宿区南町)
死 没: 1929年8月16日(64歳没) 神奈川県鎌倉町
墓 地: 京都小平市(津田塾大学構内)
出身校: ブリンマー・カレッジ
著名な実績: 日本における近代女子教育の確立
親:津田仙(父)
栄 誉: 勲六等宝冠章(1915年)、勲五等瑞宝章(1928年)


1864年12月31日 津田梅子は、父・津田仙(旧幕臣・東京府士族・下総佐倉藩出身)と母・初子の次女として、江戸の牛込南御徒町(現在の東京都新宿区南町)に生まれました。

1869年(明治2年)(梅子4歳)
津田梅子の父・津田仙は、幕臣であったため、幕府崩壊とともに職を失いましたが、築地のホテル館で働き始め、それに伴い津田家は一家で東京都墨田区向島へ引っ越しました。


津田梅子の父・津田仙は、西洋野菜の栽培なども手がけ、幼少時の津田梅子は手習いや踊などを学び、父の農園の手伝いもしていました。

津田梅子6歳でアメリカ留学?

1871 津田梅子 6歳で米留学
https://www.tsuda.ac.jp/

1871年(明治4年)
津田梅子の父・津田仙は、明治政府の事業である北海道開拓使の嘱託となり、津田家は麻布へ引っ越しました。


津田梅子の父・津田仙は、北海道開拓使次官黒田清隆(くろだ きよたか)が企画した女子留学生に津田梅子を応募させ、津田梅子は、5人の留学生の1人に選ばれました。


ただし、津田梅子は、その当時まだ6歳で、5人の女子留学生うち最年少でした。

※留学女学生として選ばれた5人:  永井繁子 (7)、津田うめ (6)、山川捨松 (9)、上田てい (13)、吉益りょう (13)


1871年(6歳) 津田梅子は、岩倉使節団とともにアメリカに行くことになります。


※岩倉使節団(いわくらしせつだん)とは、明治維新期の明治4年11月12日(1871年12月23日)から明治6年(1873年9月13日)まで、欧米の先進文化に学ぶために、明治維新政府が日本からアメリカ合衆国、ヨーロッパ諸国に派遣された大使節団。岩倉具視(いわくら ともみ)を正使とし、政府首脳陣や留学生を含む総勢107名で構成されていました。


1871年12月 横浜を出港し、サンフランシスコを経て
1872年1月 ワシントンへ到着


津田梅子は、ワシントン近郊のジョージタウンに住む日本弁務館書記(現 外交官)で画家のチャールズ・ランマン 夫妻の家に預けられました。

渡米直後、7歳頃にワシントンで撮影


1872年5月 森有礼(もり ありのり)の斡旋で、留学生はワシントン市内に住まわされましたが、10月に年長の2名が帰国し、津田梅子、山川捨松(のちの大山捨松)、永井繁子(のちの瓜生繁子)の3人が残りました。



年長の2人がホームシックになってしまいました。小学校低学年ぐらいのだと、遊びを通して現地の子供たちと交流できるかもしれませんが、中学生の年齢だと、そんなことも難しくなってくるということかもしれませんね。


この3人は生涯親しくしており、津田梅子が、後に「女子英学塾」(現在の津田塾大学)を設立する際に二人は助力しています。



津田梅子は、再びランマン家に預けられ、そこで10数年を過ごし、現地の初等・中等教育を受け、アメリカの生活文化を吸収して成長しました。


津田梅子は、英語だけでなく、ピアノなどを学びはじめ、日本へ宛てる手紙も英文で書くようになります。(日本で学校教育を受けていないので、日本語の読み書きがどの程度だったのか?とうこともありますが、、、。)

キリスト教の洗礼を受けた直後の津田梅子


1873年(明治6年)(8歳)7月 津田梅子は、フィラデルフィアの独立教会『洗礼』を受けます。
司祭ははじめ、津田梅子に幼児洗礼を授けようと考えていましたが、梅子がたいへんしっかりしていたことから、成人の洗礼を授けました。


1878年(明治11年)(13歳)地元の中学校を卒業し、私立の女学校『アーチャー・インスティチュート』へ進学



津田梅子は、ラテン語、フランス語などの語学や英文学のほか、自然科学や心理学、芸術などを学び、また、休暇には、ランマン夫妻とともに各地を旅行しました。


1881年(明治14年)(16歳) 開拓使から帰国命令が出されましたが、在学中であった山川捨松と津田梅子は延長を申請


1882年(明治15年)(17歳)7月 私立の女学校『アーチャー・インスティチュート』を卒業


1882年11月 日本へ帰国


アメリカで少女時代を送った津田梅子にとって、11年ぶりに日本に帰国した日本はカルチャーショックの連続だったようです。

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津田梅子は日本帰国でカルチャーショック?

1882 津田梅子帰国18歳

津田梅子は7歳でアメリカに留学し、11年間アメリカに学んび、日本に帰国したら、留学生として学んだことを生かして、日本のために働きたいと、意気揚々と帰国の船に乗り込んだのでしょうが、


日本に帰国した津田梅子は、教養ある女性を必要としない日本社会に落胆し、自ら向上しようとしない日本女性に怒りすら覚えたといいます。そして、同時に日本女性の地位の向上のために女子教育の必要性を痛感したといいます。


津田梅子、山川捨松(のちの大山捨松)、永井繁子(のちの瓜生繁子)の3人の女子留学生達は、10年間アメリカで英語だけでなく、様々なものを学んで帰国したのですが、当時の日本には女子留学生の活躍できる職業分野が少なく、一緒に留学していた山川捨松永井繁子は、それぞれ軍人に嫁ぎました。


それに加え、津田梅子は、幼少からの長い間アメリカで英語で生活しており、日本語を話したり、読み書きの機会がなかったため、津田梅子は、通訳が必要なほど日本語を忘れてしまっており、日本的風習や習慣にもなれていませんでした。


1883年(明治16年)(18歳)
津田梅子は、外務卿・井上馨(いのうえ かおる)の邸で開かれた夜会に招待され、伊藤博文(いとう ひろぶみ)と再会し、華族子女を対象にした教育を行う私塾・『桃夭女塾』を開設していた下田歌子(しもだ うたこ)を紹介されました。


津田梅子は、伊藤博文の家に住み込んで、伊藤博文に英語を教えたり通訳をし、また、下田歌子からは日本語を学び、『桃夭女塾』で英語教師として英語を教えました。


1885年(明治18年)(20歳) 伊藤博文に推薦され、学習院女学部から独立して設立された『華族女学校』英語教師として英語を教えました。


1886年(明治19年) 職制変更で嘱託となります。

津田梅子は、『華族女学校』3年余り英語を教えましたが、上流階級的気風には馴染めなかったようです。


また、津田梅子は、この頃には何度か薦められていた縁談も断り日本の結婚観に辟易して“生涯未婚”を誓っています。


津田梅子は「二度と結婚の話はしないでください。話を聞くだけでもうんざりです」と手紙に書きました。


1888年(明治21年) 留学時代の友人アリス・ベーコンが来日し、彼女に薦められて再度の留学を決意。


父の津田仙の知人で、日本の商業教育に携わっていたウィリアム・コグスウェル・ホイットニーの娘・クララの仲介で留学希望を伝えて学費免除の承諾を得て、校長の西村茂樹から2年間の留学を許可されます。


1889年(明治22年)(23歳)7月に再びアメリカに渡ります。

津田梅子は実はリケジョだった?

1889-1892 再度のアメリカ留学
https://www.tsuda.ac.jp/

1889年(明治22年)7月 23歳で再びアメリカに渡った津田梅子は、フィラデルフィア郊外の“リベラル・アーツ・カレッジ”、名門女子大学群セブンシスターズの名門『ブリンマー・カレッジ』に入学します。

※セブン・シスターズ(Seven Sisters): アメリカ合衆国東部にある名門女子大学7校の総称



そこで、津田梅子は、生物学を専攻し、『カエルの卵の発生』について研究しました。


ということは、津田梅子は、カエルを平気で触っていたのでしょうね。


津田梅子は、『カエルの卵の発生』を通して進化論を研究していたようですが。


使命であった教授法に関する研究は、州立の『オズウィゴー師範学校』で行いました。


津田梅子に留学を勧めたアリス・ベーコンは、日本習俗に関心を持ち、日本女性に関する研究をしていましたが、アリス・ベーコンがアメリカへ帰国し、研究『日本の女性』を出版する際には津田梅子はが手助けをしています。


そして、津田梅子は、留学を一年延長し、日本女性留学のための奨学金設立を発起し、公演や募金活動などを行いまいました。


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津田梅子 津田塾大学前身を設立

1892年(明治25年)8月 大学からはアメリカへ留まり学究を続けることを薦められましたが、津田梅子は日本に帰国します。


津田梅子は、再び『華族女学校』で教師生活を続けるとともに、自宅で女学生を預かるなど積極的援助を行いました。


1894年(明治27年)(29歳)明治女学院でも講師を務めました。

1898年(明治31年)(33歳)女子高等師範学校教授を兼任しました。


華族女学校他で教鞭をとるかたわら、デンバーで開催された万国婦人クラブ連合大会出席、ヘレン・ケラー訪問、ナイチンゲールとの会見など、多方面から多くの刺激を受けて、日本女性のための高等教育に力を尽くす決意を固めます。


1899年(明治32年) 高等女学校令、私立学校令が公布される

1900年(明治33年)(36歳) 女子教育への法整備が整い、機運が高まったことを受け、官職を辞する。


1900年(明治33)7月(36歳) 津田梅子は、私立女子高等教育として『女子英学塾』(現在の『津田塾大学』東京麹町区に創設

津田梅子は、塾長となり、華族平民の別のない女子教育を志向して、一般女子の教育を始めました。


《津田梅子の教育理念》
・真の教育には、教師の熱心、学生の研究心が大切であること
・学生の個性に応じた指導のためには少人数教育が望ましいこと
・人間として女性としてall-roundでなければならないこと



『女子英学塾』は、それまでの行儀作法の延長の女子教育と違い、進歩的で自由なレベルの高い授業が行われましたが、当初はあまりの厳しさから脱落者も多かったようです。


独自の教育方針を妨害されず貫き通すため、資金援助は極めて小規模にとどめられ、津田梅子やマラらの友人は、はじめ無報酬で奉仕していましたが、学生や教師の増加、拡張のための土地・建物の購入費などで経営は厳しかったようです。


1903年(明治36年)(38歳) 専門学校令が公布され、『女子英学塾』の基盤が整うと申請して『女子英学塾』を社団法人としました。


1919年(大正8年)(54歳) 津田梅子は、塾の創業期に健康を損なったため、塾経営の基礎が整うと塾長を辞任

1929年(昭和4年) 鎌倉の別荘で長期の闘病後、脳出血のため64歳で死去


生涯独身を貫いた津田梅子の墓所は、東京都小平市に在る津田塾大学の構内にあります。



『女子英学塾』は『津田英学塾』と改名されましたが、後に戦災でその校舎は失われてしまいました。


1948年(昭和23年)梅子没後19年目に『津田塾大学』として正式に落成・開校しました。


津田梅子が留学させた女性達は?

アメリカ留学中に日本の女子教育の実情を訴える公演などで寄付金8000ドルを集めました。、


1891年 「日本婦人米国奨学金制度」を設立し、帰国後、制度を利用して計25人の日本女性をアメリカに留学させました。


◎松田道(1868-1956) ⇒ 1922年(大正11)同志社女子高等学校校長

◎河井道 ⇒ 恵泉女学園創立者

◎鈴木歌 ⇒ 華族女学校教授、

◎木村文子 ⇒ 東京女子師範学校教授

◎星野あい ⇒ 津田塾大学学長


など、この制度で留学した多くが女子教育の指導者となりまました。


また、津田梅子の母校で、奨学金留学生を受け入れた『ブリンマー・カレッジ』の卒業生には、レオニー・ギルモアなど、日本で英語教師となった人もいます。


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津田梅子【新5千円札の顔】国民の反応は?

“6才だった津田梅子さんを国費留学生に選んだ人もスゴイ。幼稚園児か1年生、普通なら親元離れて外国になんて絶対行けない。よっぽどすごい6才児だったんでしょう。”


“子供があと1ヶ月で6歳なるけど、留学とか絶対無理です。祖父母宅のお泊りでも夜中に泣いてます。”


“時代に翻弄される女性の話しはよく聞きますが、現世からタイムスリップされたような方ですね!”


“独身女性のことを売れ残りだとか、人格に問題ありとか、国民の義務を果たしてないって叩いているうちは、まだまだ時代がこの人に追い付いてないよね。”


“すごい人ね。平成も終わるというのに、日本はまだまだ。女は家で家事育児して、旦那と義父母の言う事聞いてろみたいなところが、まだまだあります。”


“津田塾卒業生です。津田梅子は36歳の頃、大学を設立し、寄付金をアメリカの新聞で募ってます。日本で寄付を募ると、口まで出されて、自分が理想とする教育が出来ないからです。


私もこの年齢となりましたが、現代に生きる私がアメリカで寄付を募り、大学設立はできません。それを明治時代でやってのけた女性です。”


“幕末の男尊女卑の時代に、6歳でアメリカに留学し、17歳で帰国 紆余曲折し津田塾を始めた津田梅子が居たから、今の日本女性の地位がある。”


“女に経済力がないから、結婚も離婚も選べない。時代が変わっても、現実は大して変わっていないように思う。


男女間にある、数倍の賃金格差。母親となった女性の就労形態や賃金の壁、男性の育児家事能力と時間と関心の低さ。多様な生き方を選べるようになったといわれるけど、まだ津田梅子のような人が日本には必要です。”


“津田梅子を大河ドラマにしてほしい!”


“津田梅子がいなかったら、今の日本の女性経営者の数は、はるかに少なかっただろう。”


“今の時代にこそ、第二の第三の津田梅子さんが誕生して、腐敗した日本を引っ張っていってほしいです。男尊女卑のおじさんたちを押しのけていけるパワーのある人が。”


“私も自分の意思を持った立派な女性になりたい。そして大学生になったら、世界に目を向けて、留学もしたい。今私は医師を目指しています。女性にしかできない医師の仕事もきっとあると思うし、男性と同じように働きたいと思っています。がんばります。”


“男女平等を説いていく時代にふさわしい人を選んだんですね。時代の流れに背く言動をする人はいつでも奇異な目で見られるものですが、時代がやっと彼女に追いついたということでしょう。”

津田梅子【新5000円札の顔】とは?帰国でショック!リケジョ?まとめ

津田梅子は、6歳で親元を離れ、11年間アメリカで留学してます。


6歳の我が子を、10年も間、その当時とすれば、会いに行くこともできなければ、電話もできないような遠くに娘を送り出す親もスゴイ!ですが、おそらく、泣くことも、駄々をこねることもなく、アメリカに行ってしまう津田梅子もスゴイ!です。


日本では、英語教師としての仕事くらいしかなかったようですが、本当は、津田梅子は、遺伝子の研究もできてしまうスーパーリケジョだったんですね。


2度目の留学でそのままアメリカに残り、自分の好きな研究を続けることもできましたが、あまり歓迎されないであろう日本に戻り、“日本女性の地位の向上”のために尽力を尽くしてくれました。


『令和』の時代が来ますが、女性の活躍できる、明るい時代になってほしいですね。


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