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新元号『令和』典拠『万葉集』『梅花の歌32首』序文の読み意味訳?

新元号『令和』
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2019年4月1日に行われた記者会見で、内閣官房長官・菅義偉(すが よしひで)氏によって、明仁天皇陛下(今上天皇)の譲位に伴う新元号『令和(れいわ)』が発表されました。

皇太子徳仁親王(なるひとしんのう)の即位に伴って、2019年年5月1日から施行される新元号『令和(れいわ)』の典拠が、これまでの中国の古書からではなく、日本の国書である『万葉集』からであることが話題となっています。

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新元号『令和(れいわ)』典拠の『万葉集』とは?

新元号『令和(れいわ)』の典拠となった『梅花の歌32首』の序文は、『万葉集』の中の歌です。

『万葉集』は、現存する日本最古の歌集で、全20巻、約4500首の歌が収録されています。

7~8世紀後半に編さんされたとされ、歌は漢字の音を借用した「万葉仮名」を用いて書かれています。

『万葉集』の中の歌は、天皇や貴族だけでなく、農民など幅広い階層の人々に詠まれています。

万葉集『梅花の歌32首』序文の頃の元号は?

https://twitter.com/ifname_i/status/1112595873421094912

新元号『令和(れいわ)』の典拠となった「巻五 梅花の歌三十二首并せて序」が歌われた頃の元号は、『天平(てんぴょう)』です。

天平(てんぴょう)2年(730年)の正月13日に、大宰帥の大伴旅人(おおとものたびと)邸の梅園に、山上憶良(やまのうえ の おくら)や下僚ら約30人が集まり催された「梅花の宴」の宴席で、詠まれた32首の序文となります。

『天平(てんぴょう)』は、729年から749年までの20年間をさし、この時代の天皇は、聖武天皇(しょうむ てんのう)でした。

奈良の都・平城京を中心にして華開いた貴族・仏教文化である奈良時代の最盛期にあたり、東大寺、唐招提寺などに残るその時代の文化は天平文と呼ばれています。

『万葉集』が作られたのは、中国の文化をベースにして日本の文化が成熟してくる時期でもありました。

約4500首が収められている『万葉集』は、奈良を対象に詠んだ歌が最も多いとされています。

万葉集『梅花の歌32首』序文の読み方は?

新元号『令和(れいわ)』の典拠である『万葉集』の『梅花の歌32首』の序文の読みは以下のようになります。


「時に、初春の令月(れいげつ)にして、気淑く(き よく)風和ぎ(かぜ やわらぎ)、梅は鏡前(きょくぜん)の粉(こ)を披き(ひらき)、蘭は珮後(はいご)の香を薫す(かおらす)」

万葉集『梅花の歌32首』序文の現代語訳と意味は?

新元号『令和(れいわ)』の典拠とされている『万葉集』の巻5の『梅花の歌32首』の序文の現代語訳及び意味は、

『折しも、初春の佳月は美しく映え、空気は清く澄みわたり、静穏な風がやわらかにそよいでいる。
梅は鏡の前に置かれた粉(化粧に使うおしろいの粉)のように白く軽やかな花を咲かせ、蘭は煌びやかな玉を飾った美しい女性が纏うお香(雅な方々の身だしなみとして使われたいい香のする煙)のごとく良い薫りをさせている。』

となります。

簡単に言ってしまえば、“白い梅がキレイ、欄の匂いがイイ”ということなのですが、当時の宮中の内側が垣間見えるようなとても趣のある
美しい文ですね。

あお♪ on Twitter
“「萬葉集 釋注三」伊藤博著より、梅花の歌三十二首 序文訳 #万葉集 #梅花の歌 #令和”

安倍晋三首相は、元号発表に伴って開いた記者会見で、新元号について

「人々が美しく心を寄せ合う中で、文化が生まれ育つ。梅の花のように、日本人が明日への希望を咲かせる。」

という思いを込めたものであることを語りました。

万葉集『梅花の歌32首』の序文の作者は?

大宰府 大伴旅人 梅花の宴
画像引用: https://www.kotodazaifu.net/pavilion
新元号『令和(れいわ)』の典拠である『万葉集』『梅花の歌32首』の序文は、

天平(てんぴょう)2年(730年)の正月13日に、大宰帥の大伴旅人(おおとものたびと)邸の梅園に、山上憶良(やまのうえ の おくら)や下僚ら約30人が集まり催された「梅花の宴」の宴席で、詠まれた32首の序文となります。

自宅の庭にある中国から入ってきた当時としては来た珍しい木だった梅の花を、大伴旅人(おおとものたびと)は、1人で見て過ごすができず、仲間とともに楽しみたかったのでしょう。

新元号『令和(れいわ)』は、その詠まれた32首の歌の序文から採用されました。

https://twitter.com/kasamashoin/status/1112574489940746241

そのような状況から、『万葉集』『梅花の歌32首』の序文の作者は、大伴旅人(おおとものたびと)山上憶良(やまのうえ の おくら)かと考えられています。

歌人としては、額田王(ぬかたのおおきみ)、柿本人麻呂(かきのもと の ひとまろ)らもよく知られています。

『梅花の歌32首』が詠まれた九州の大宰府は、当時の日本の中で、外交の出先機関であり、最も外国からの文化や文明に触れることができました。

『万葉集』は、近畿地方の人々の歌が中心になっているのですが、大宰府では、大伴旅人や山上憶良らが歌の世界をリードしていため、『梅花の歌32首』は、万葉集の中でも特徴のあるものとなっています。

新元号『令和』典拠『万葉集』『梅花の歌32首』序文の読み意味訳?まとめ

新元号『令和』典拠『万葉集』『梅花の歌32首』序文は、天平(てんぴょう)2年(730年)の正月13日に、大宰帥の大伴旅人邸の梅園に、山上憶良や下僚ら約30人が集まり催された「梅花の宴」の宴席で、詠まれた32首の序文なんですね。

当時の日本人は、花や自然の変化を楽しみ、それらをとても趣のある美しい文章で表現していたんですね。

“令和”という新しい時代が、平和なよき時代でありますように!

(『万葉集』を読みたくなっている自分がいます。)

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